一年の計は元旦にあり
「一年の計は元旦にあり」と申しますが、そうそう最近ネット上ではくしきなみなさまが「元旦ってのは元日の朝の事だから、1月1日を指して元旦って言うのは間違っている」と鬼の首を取ったようにはくしきなちしきをひろうされておりますが、もともと元旦には「1年の初めの日」と「1年の初めの朝」の両方の意味があるのは中国の古い書物からも間違い無く、元旦をもって「1年の初めの朝だけを指す」と言う方(いうほう)が誤りです。
言葉と言うのは変化するものですから、その時々に応じて使い方が変わる方が正しいと思います。あまり、細かい指摘をすると、変化すると言う言葉の文化自体を否定する事になりかねません。
普通に通じればいいじゃんw
さて、「一年の計は元旦にあり」ですが、毎年何か無いか考えるのですが特に思い浮かばず、適当に「家族の健康」とか「商売繁盛」とか願って終了です。ええ、それって全然「計画する」事では無く神頼み的な方ですw
そもそも、「一年の計は元旦にあり」って、一年なんて長期間の壮大な計画を元旦にしてしまおうと言う非常に大掛かりな事でして、 この野望とも言えるほどの無理な計画を1日でさせようと言うのが間違ってるんですww
おそらく、「一年の計は元旦にあり」って、普段全く無計画な人に「元旦にくらい、計画立てようよ」と言う意味で使われ初めたんじゃないですかね?www
遂に、格言の意味すら変更w
計画って言う事で言えば、何か買うって言う事でもいいのかなって思います。買うって言うと俗世的な煩悩に支配されているイメージですが、生きていくために必要な食料品を買う事も、趣味の物を買う事も、買うと言う行為からしたら同じ事です。
「買ってあげる」と言うプレゼントの行為を「計画する」と言うのはちょっと変な感じもありますが、「プレゼントする物を買う計画」と言うのは、イメージ的にはまだアリかなって思います。
私の父方の祖父母、随分と高齢にはなっておりますが、まだ元気でピンピンとしております。昨年、うちの双子ちゃんたちが生まれた時には「まさか、ひ孫が抱けれるとは思っても無かった」と言いながら「なんまいだぶ、なんまいだぶ」と念仏唱えておりましたww
そう言えば、祖父ちゃんと祖母ちゃん
「墓が欲しい」って言ってたなあ・・・
そんな事を正月から思い出しまして、一年の計に相応しいのかどうか全く分かりませんが墓を作ると長生きするとも言いますし、今年は墓でも作ろうかなと。
墓石と一緒に立てる墓誌には、墓を立てた時点で生きてる家族の名前を赤字で刻むんだそうです。親子4世代全員が赤字で書かれた墓誌を祖父ちゃん祖母ちゃんに見せてやるのも悪く無いかな。正月から墓がどうのって言うのも、アレだけどwww